八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? - 天和3年3月29日(1683年4月25日))は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。
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この人物は幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、それが後に浄瑠璃等芝居の題材となったことで有名である。
生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となった。
お七は天和2年12月28日(西暦1663年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。 甲斐は評定の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐は定法どおりの判決を下さざるを得なかった。
文学その他
お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の『八百屋お七』、菅専助らの『伊達娘恋緋鹿子』、為永太郎兵衛らの『潤色江戸紫』、鶴屋南北の『敵討櫓太鼓』など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。芝居では寺小姓と再会するため、火の見櫓の太鼓を叩こうとする姿が劇的に演じられる場面が著名。
お七のモデルとなった人物は大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七であるとする説もある。
少女の頭に鶏の体の幽霊として現れた話もある。
渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓した。
生涯
江戸幕府碁方の安井家1世安井算哲の子として京都四条室町に生まれた。承応元年(1652年)、父の死によって2世安井算哲となるが、安井家はすでに1世算哲の養子算知が継いでいたため保井姓を名乗った。そして万治2年(1659年)には21歳で御城碁に初出仕して、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで21歳の時に中国の授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった土御門泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[1]が、中村惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や土御門泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。
囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10年(1670年)10月17日の御城碁においては、本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をあきらめることとなった。
貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められた。元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移された。著書に天文暦学においては「日本長暦」・「三暦考」・「貞享暦書」・「天文瓊統」、神道においては「瓊矛拾遺」がある。改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、地球儀をはじめ、天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成している。
後に嫡男である昔尹(ひさただ)に天文方の地位を譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死すると、春海も後を追うように亡くなった。渋川家と天文方は春海の兄・安井知哲の次男敬尹が継承した。法号は本虚院透雲紹徹居士。墓は東京都品川区の東海寺にある。明治40年(1907年)に改暦の功績によって従四位が贈位された。
貞享暦(じょうきょうれき)とは、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法である。初めて日本人の手によって編纂された和暦である。
貞享暦は、渋川春海の手によって完成したもので、貞享元年10月29日(1684年)に採用が決定した。
渋川春海は、中国の授時暦を元に自ら観測して求めた日本と中国との里差(経度差)を加味して、日本独自の暦法を完成させ、大和暦(やまとれき)と命名した。当時使われていた宣明暦は、800年以上もの長きに亙って使われたため誤差が蓄積し、実際の天行よりも2日先行していた。また、各地で独自に宣明暦に基づいた暦(民間暦)が発行され、それらの中には日付にずれが生じているものもあり、暦の全国統一をする必要があった。朝廷は、当時明で使われていた大統暦に改暦する予定であり、貞享元年3月3日には、大統暦改暦の詔まで出されていたが、渋川春海が採用を願い出た大和暦を採用することとし、当時の元号から「貞享暦」と命名した。渋川春海はこの功により、幕府から新設の天文方に任命された。
なお、800年ぶりの改暦は当時話題となり、井原西鶴は『暦』、近松門左衛門は『賢女手習並新暦』を執筆している。